8月1日



ものごころ付いた時から坂のある街に住んでいる。



子供の頃の移動手段と言えば自転車

本当に幼少の頃に家にあった自転車というと、
これが母の実家からもらったお古と思われる、当時にしても古くさい代物。
朽ち果てた実用車という感じで、僕はもちろん母や、あるいは父が乗っている姿も
記憶に無いくらい凄い物だった。



そのせいか補助輪無しの自転車に乗れるようになったのは案外遅く
小学校に入ってしばらく経ってからだったと記憶する。
(オマケに家の回りは未舗装で砂利道だったから尚更不利だった)

その自転車も近所のお金持ちのお古で、本当の意味で新しい自転車を買って貰ったのは
小学五年生の時で、やっとギアチェンジが出来るヤツが手に入ったのだ。

それ以降、自分のために自転車を買ったという事はないのでそれが最初で最後の新車の自転車ということになるんだな、きっと。


さて、中学くらいまでは自転車が唯一の足となる。
歩きよりは行動半径が広がるから貴重だ。

もちろん公共交通機関というのもあるのだが、これがまたその頃のバスの運行は極めてあてにならないものだったので
ほぼ論外だった。

運行が悪いといってもバスがいい加減なのではない。道路事情がとっても悪いエリアだったのだ。
このお陰でよっしーは大切な友人をもの凄く長時間待たせてしまったことがある。
1977年3月18日のことだったと記憶する。



その頃僕らは高校生で、もう免許の取れる年齢だったのだけど奥手の僕は原付免許を持っていなかった。

実はこの時友人に迷惑を掛けたことが後の免許取得の弾きがねとなっている。

何しろ今と違うから携帯を持っている訳でもなく、こちらはバスを呪い、友人はただ待つだけという事だから
まあ困ってしまう。


さすがに申し訳なく感じたよっしーが用事が終わってから何かご馳走をしてお詫びを、と思ったら
今度はその時間に開いている飲食店がほぼ無かったというオチまでついて、いや、本当にゴメンナサイと
今でも思い返すと心苦しい気がするのだ。


その友人は自転車愛好家で、そう言えば高校一年の時初めてお宅にお邪魔するのに
(*もちろん当時はお宅にお邪魔、なんて風には思っていない。遊びに行く、ってヤツだ)
最寄り駅(といっても自転車で15分は掛かるゾ)までチャリで迎えに来てくれた。

二人乗りで送迎ということだが彼の家の付近は、実は坂がないのだ。

坂があるか無いかは自転車ライフに大きな影響を与える。


なんだ、ちょっとした坂くらい、と思える坂なら良いが、よっしー宅周辺の坂はそんな生やさしいものではない。
それゆえよっしーは早々に自転車に見切りを付けて原付に走ったのだった。


50ccだろうがなんだろうがエンジン付きの威力は凄い。
これはもう行動半径を飛躍的に広げてくれる。



それと、ドアツードアが実現するので、滅茶苦茶便利。
バスで駅まで行って電車に乗って、降りてまたバスに乗って…なんてやっていたら日が暮れる。
それが原付だとキック一発でエンジンを掛けて走り出せば、限りなく直線コースに近く駆けつけることが出来るのだ。



…ここまで書いてきて思ったのだが、僕はその友人の家に、最初のCB50で行ったかな?

…どうも記憶が曖昧なのだ。



後に400に乗って行った記憶は散々あるのだが、CB50の時の記憶が薄い。

行っている筈なのだが?とよく考えるとCB50オンリーだった期間が7ヶ月くらいしかなかったからだろう、きっと。

とにもかくにも原付は当時の高校生にとって魔法の杖みたいなものだった。



ただ、大敵はいくつかあった。

一つは

もちろん雨でも乗るのだが、出来れば避けたいという感じで、お手上げに近かった。
そんな日はその彼の家で二人、あるいは三人でギターを片手に「雨が空から降れば」を歌った。
“しょうがない、雨の日はしょうがない♪”と、その頃僕らは心から思ったものだ。

次には辛い。
友達の家に着いたらストーブにかじりつくのがおきまりのパターン。

それから荷物の運搬は苦手。

一番困るのがギターとかで、今みたいに小さいギターでもあれば少しはマシだが
フツーのギターを持って乗るというのは原付では困難至極。
そのような時、しみじみ四輪は便利だな、と想ったものだ。

そして制限速度30`ということ。

時速30`で走っていて誉めてくれるのはお巡りさんくらいのものだろう。
人気のない裏道ならともかく、ちょっとでも車の多い道を走るとき、時速30`は非現実的としか言いようがない。

もちろん、それが規則なのだからオーバーすればお縄になるのはやむを得ないが、ちょっと浮き世離れした法規であるのも確か。


よっしーは、これまた悪運が強いというか原付の速度超過で捕まったことはないのだが
今回の話しに出て来ている友人などは後年我が家からの帰り道、バッチリねずみ取りに掛かってしまい
とても暗い気持ちになったものだ。
(*大学時代にもらい物のCB50に、彼も一時期だが乗っていた)

30年以上経った今でもその時の事を思い出すと暗澹たる気持ちになると語っているが無理もない。

ということで原付も万能ではないのだが、それでも当時の高校生にとって本当に大切な存在だったということだけは言える。



しかし、一体なんでこんな事をつらつら書いているのだろう?

現実逃避の一種ということで片づけてもらうのが一番良い。

どの人生にも“困ったな〜”というようなシーンがたくさん出て来る。
もちろん波があって、それは出っぱなしではない。(ずっとだとかなりキツイ)

そして人によって、困ったことに翻弄されている時に取る行動はパターンが違う。

よっしーは根が懐古趣味だからすぐ回想シーンに浸ってしまう。
酒に走るとかパチンコをするとか、人によってはそういうことをするのだろうが。


それと、夏はなぜか過去を振り返る季節だったりする。
それは例えばお盆とかの風習があり、故人に思いを馳せる事が多いからかもしれないのだが
よっしーの場合特に夏になると過去ネタをやっている確率が高くなる。

なぜだろう?

圧倒的にパワフルな日差しにやられると、踊り狂って我を忘れるか、あるいは日陰に籠もって過去想いに精を出すしか
無くなるのではあるまいか。


タイムスリップというものを出来るのなら、ちょっとで良いから高校時代の自分を覗きに行ってみたい。

その頃であれば、もちろん母も元気だし。また、色々な人達が元気だろうし…

(続き…ません)


8月2日



降る雪や、高校時代は遠くなりにけり。




お父さん、私にはわかるわ。
あなたは死ぬまで生きるわ。

…そりゃ当たり前でしょ、ルーさん…



少し前から変に感じることがあったのだが、
PX-2の回転が変。

時々クオーツロックのランプが点滅する。
…ということはクオーツが外れているということか。

こう暑くては手を打つ気もしない。
秋になったら開腹しよう。


8月3日

3年前の11月12日の日記を見る。


CB50JX-1の実にしいこと。

この個体は、自慢するわけじゃないがホントに程度がよろしかった。

しかし、現実に動き出すと色々な事が起きる。

機関の方もなのだが外観も変わってくる。

まずガソリンタンク。



今装着されているのは別途単体で買ったタンク。

見た目は元の物より悪い。
ただ、ガソリン洩れが無いのがありがたい。

元のタンクは実に美しいのだがガソリン洩れを止められなかった。

それは良い(良くない)のだが、にじみ出すガソリンのせいでサイドカバーなども劣化。
これがなかなか綺麗に出来ない。



テールカウルも単体で手に入れた物。

元のは綺麗だったが走るにつれてヒビが入り、どんどんれて行った。
これもやむを得ないが情けないのも確か。

小物入れのフタも飛んで行ってしまったので、これも別途入手。

フタだけ色が合っていないので近く純正色で塗り直す予定。




トータルで、遠目に見ても、やっぱりちょっと汚い。



だが、素性の良さはわかる。

フロントフェンダーは割と良い状態がキープされている。

それと各金属パーツが綺麗。
これは前オーナーの扱いが良かったからだ。

あと一息綺麗にしたいと思う今日この頃。


8月5日



松本清張先生の「黒い画集

これも知る人には説明の必要なし。

…とまとめてしまうとそれで終わりになってしまうので多少続ける。

この表紙は割と新しい版だ。

よっしーが初めて清張先生の作品に触れたのは中学一年生の頃で
たしか「日本の黒い霧」が出会いだったと思う。

その後間が開いて大学一年生の時にまとめて読んだ中の一冊が
この「黒い画集」。
文庫ではなく新書版だった。

“ベストセラーは捨てても大丈夫”の例え通り
清張先生のなんか幾ら処分してもまた手に入る。

だから文庫版の「黒い画集」もこれで何冊目か?わからない位買い直している。

収録作は、遭難/証言/天城越え/寒流/凶器/紐/坂道の家

推理小説としては凶器、とか坂道の家が注目されるところだろう。

それらも良いが、よっしーが好きなのは、やっぱり遭難。そして寒流か。

遭難、は初めて遭遇した山岳推理物。
この後森村誠一先生の一連の作品で山岳物には慣れ親しむが
個人的第一号は、この「遭難」。
なかなかディープな一作だ。

「寒流」の本当の良さは大学生ではわからない。
だが、何とも言えぬ展開にぐんぐん引き込まれてしまったものだ。

と、又しても読書ネタになってしまっている?

まあ良いではないか。
夏はやっぱり読書。それから昔に思いを馳せて、
ご先祖様や先達の事を考え、
ついでに工作などするのがよろしい。

エアコンつけてオーディオなんて論外
それからバイクも相応しくない。
夏はバイクのシーズンなんて、バイクを知らない人の言うことだ?
暑くて頭がおかしくなる。
(散々乗ったくせに)



8月8日



子供の頃、8月の頭なのに、なぜ立秋なのかわからなかった。

というか秋なんて認めたくなかった。

永遠に夏が続けば良いのに、と真剣に思っていた。

しかし、なるほど8月の一週が終わると秋の気配が忍び寄るのだ。

風がちょっと違う。

ビミョーに夕暮れが短くなる。

こうして秋は忍び寄るのだ。

本当に夏を満喫したければ、六月の終わり頃から身構えて
一日たりとも無駄にしないという勢いで日々を楽しむしかない。


それでも、この8月二週から四週を、夏とじて楽しむ事は出来ないことじゃない。

昔々、8月の6日に自宅を出て、8日に北海道に入り、26日に函館を後にして
28日に家に戻った事がある。

夢の様な旅だった。
もう二度とあんな旅は出来ないと思う。
単に日程の問題ではないのだ。
心のあり方が関わっている。

僕は後なんど夏を体験することが出来るのだろう?
そう考えると、どの夏もまた貴重なのだ。


8月10日

夏が早く終われば良いの、になんて思うようになったら加齢かもしれない。

小学生の頃は9月に入って学校が始まっても、
まだそこにっている(と信じていた)夏をさない心構えだった。

甲子園も終わり、プールが閉ざされても
セミが鳴いているのだし夏なのだ、と言い張っていた気がする。


小学三年生か四年生かの9月のある朝のことだ。
当時の台所の窓から外の景色を、いつもと同じように見たとき、
あ!秋になっちゃった!」と愕然とした事を今も覚えている。

小学生だったのだが、そこに秋の訪れを完全に感じてしまったのだろう。

もちろん紅葉を見たとかそんなことではなく、
日差し、あるいは光の変化を敏捷に悟ってしまったのだ。


小学生というのはのんきなもので、秋が来れば秋を。
冬がくれば冬を、それぞれ楽しんだ…
のではなく、秋が来ても冬が来ても同じように遊んでいた。

の素晴らしい想い出もあったしの楽しい想い出もある。
それでもが一番好きだったのは、やはり40日間の休みがあったからだろう。

それと、当時なんか全室でストーブが一つしかなくて
秋から冬へとなれば寒くて仕方なかったからというのもあるのか?

でも、夏だって冷房器具は扇風機一つしかなかったから暑かったな。

そう考えると、やっぱり”夏が好き”だったのだろう。


8月11日

ちょっとだけしくなった日に
久し振りにシステムに火を入れてみた。

FMを聴いて、ご機嫌ご機嫌なのは良いが
徐々にアンプが過熱していく。

HMA-9500は自前だから良いがC-2Xは借り物だ。

そこでデジアンに変更。

セレクターが無いのが不便だが、どのみち今はFMしか聴かないから
ノープロブレム?

久し振りに聴く、デジアンドライブによるP-610平面バッフル。

スピーカーマトリックスが使えないので楽しさは半減するが
音は良い。

C-2X+HMA-9500と比べてどうよ??という様な事はどうでもよい。

どちらも良いとしか言いようがない。

何より超省エネ。
精神的なストレスが全くないという点で圧倒的にデジアンが有利。

ただ、セッティングのいい加減さが分かり易いので
その点は良し悪しかも。




真夏の昼下がり、街が白い。

撮影場所はウチの近くだし、まあそれでも人が歩き車が走っている。


これが地方都市だと人影もまばらだったりして
一層よい感じになる。


いや、良い感じということはない。
ある意味怖いというか、早く走り抜けて行ってしまいたい衝動に駆られるものだ。


じりじりと暑くて、軒並み店もしまっている(おだから)。

こんな所でバイクにトラブルでも起きれば、と思うとさっさと後にしたくなる。


これまで印象的だった真夏の昼下がりと言えば
旭川。それと甲府があった。


8月12日

お盆です。

参りに行ってきました。

するとどこかで見たようなカエルさんが…




まさか去年9月にお逢いした方と同じなはずもなく…

一応ぱちりと写真だけ撮って来ました。


でも、似ているよね。


母が亡くなったのが比較的早かったもので
おじさん達が後から亡くなる形になった。

20年の間に色々な方を見送って来た。

おじさんとかおばさん。あるいはおじいちゃん、おばあちゃんなんてのは
昔はいものと決まっていたし、よっしーもやんちゃ(昨今言うところのやんちゃとは意味がまるで違うが)
だったので、それはもうよくられていた。

もちろん、それらも全て今となれば懐かしい想い出だ。

それと、昔のおじさんとかは、なかなかしい人が多かった。
今思うと、何してたんだろう?みたいな人もいる。

将棋を教えてくれたおじさんがいた(母が亡くなって間もなくそのおじさんも亡くなった)。
コマの動かし方もよく知らない小学生相手に棒銀を使うなんて酷いじゃないか、と言うのを忘れている内に他界されてしまった。

これまた母が亡くなってから5年くらいで亡くなってしまった父方の、電気屋さんのおじさんも将棋が強かった。

何が凄いって、王様と歩が三枚だけでよっしーを負かしてしまうのだ。

色々な方が逝かれた。


そうそう、皆さんお元気な頃は戦争のお話しなんか良くされていた。
それを訊いて育ったせいか、よっしーはどうしても贅沢が苦手だ。

今回はが先日出したを親戚に配るべく持参していた。

受け取ったおばさんと半生を振り返る話しに花が咲いていた。

”大変な時代だったかもしれないけど、自分に限定していうと、そんなでも無かったよ”

”食べる物もなんとかあったし”(このあたりは都心より却って有利だったのだかもしれない)

”お金は無かったけど、そもそも買う物が無かったんだから何とも無かったし”


…最後の言葉は印象的だった。

そうですねー。大変だったかもしれないけど、それは良いことだったのかも。
その後日本は、どうもちょっと違った方向に走ってしまい。それはそれで幸せなこともあったけど
どうにも隣の芝生が気になりやすくなってしまった様でもあり…


ま、良いとか悪いとか一言で言えないけれど、どの時代にも良い点、悪い点があったのね、きっと。

僕らも色々あるけど、なんとか乗り越えていくしかないのだな、これは。


話しはうんと変わるけど、ある日のP-610。

敢えて部屋を明るくせず、FMなんかをデジアンを通して聴いている。

塩梅は大変よろしい。

扇風機のファンの音。室外から蝉の声。

それらも全て一緒に聴いているのだが、そうして聴いても良い音だ。


8月18日

みちのくへと旅だった。

よっしー家唯一の旅行は夏に行われる。

それも行き先は突然決まる。

よっしーは昔こそ口を出していたが、ここ最近は完全にお任せ。
理由はというと、それについて考えている時間が全然無いから。

毎年どこかへは出掛けるのだが、過去8年くらいはネタにしていない。

読んでいる方が面白いととても思えないからだ。

その禁を破って今年は書いてみよう。



まずは新幹線で米沢入り。

なぜ米沢?

深い意味があるような無いような。

実はよっしー家でも子供さん達が成長して、ついに家族の休みが合わなくなってきた

昨年まではなんとかしていたが、今年はどうにも都合が合わない。

は学校行事で某所へ。
そして息子さんは合宿免許で免許を取りに某所へ。

で、かねてより息子の路上教習を邪魔しに?夫婦で押し掛けようと言っていたのだが
(どんな夫婦じゃ?)冗談が本気に変わって新幹線に飛び乗った次第。
米沢で降りたのも教習所がその付近だったからに他ならない。



米沢をざっくり堪能してから蔵王へ向かう。

その間に息子がご厄介になっている教習所があるのだが
実は正式な名前は知らないというふざけた夫婦だ。

まあ息子も二十にもなって出先へと両親に来て欲しくないだろうし、
まさか本気で押し掛けてくるとは、お釈迦様でもご存知あるめい?


しかし、カーナビの威力は凄いというか、それらしき教習所名を入れればしっかり誘導してくれる。


一軒目の教習所は外れだったが、二軒目でビンゴ!

な〜んと、丁度路上教習から戻ってきた長男に遭遇。

さすがに驚いていたが、めでたく写真をパチリ。



ま、これで目的達成ということでさっさと教習所を後にする。
(よっしーは本気で路上教習を尾行しようと目論んでいたのだが、
よっしーの妻の呆れた視線に遭って早々に退却した)

さて、蔵王へ。

で、カーナビで検索すると、?というような迂回路を案内する。



何度か入力し直すも、頑なにそのルートを出すので根負けして従うが
帰宅して改めて調べ直すと、なんと最短ルートの三倍くらい走らされている?



オマエはガソリン屋さんの回し者か?

…なのだが、走ったルートの景観は素晴らしく、文句を言えたもんじゃない。

いや本当に素晴らしいドライブルートだった。
一応説明すると国道113号線をひた走り、途中七ヶ宿町を見ながら走るのだが
ここの眺めが抜群。
七ヶ宿町湖(ダム湖)付近も素晴らしいとしか言いようがない。



一瞬4号線に出て、白石付近からすぐ457号線に入り北上。
遠刈田温泉付近から蔵王エコーラインを西へ走る。



ただ、さすがにドライブに飽きてきたし、いい加減宿に着きたいという気持ちになるのも確か。
それを押してお釜に立ち寄るが、これも結果的に正解で、柔らかな日差しと冷気の中で
雄大な自然にひたる。



ほとほと疲れました、というところでゴールイン。

翌日はもう運転したくありません、という感じで蔵王を探索。
ロープウエイで山頂付近に上がりトレッキング。



午後は山寺もトレッキングとかほざいていたヤツがいたが、午前中だけでお腹いっぱいになったようで
何よりでした(笑)

歩くのは止めて車で山形市内へ。



途中蔵王駅で帰りの新幹線の予約を変更してもらって、夕方から朝の新幹線にチェンジ!

だって早くルーに逢いたいもん…

ってことで散策の疲れもあって早寝したら夜中に目が覚めて、意味無いじゃ〜ん(汗)

お宿に無理言って早めの朝食を頂いて出発して、開店前のレンタカー屋さんにとっとと着いて、
8時台の新幹線で東京へ!

いやー新幹線って本当に早いんですね(完)



…って、まとめちゃうとこれだけなんですね、案外(笑)

で、このままだと悪い作文の典型みたい。
先生に、「何をしたかはわかったけれど、よっしー君が何を感じたかが書いていると良かったわねー」
とか言われそうだ。

別にそれで良いんだけど、個人的な捻りを一つ、あるいは二つ三つ。


こちら先日も話題にさせて頂いた、鮎川哲也先生の一冊で「鍵穴のない扉」。




推理小説だからネタばらしにつながるような事は書けないのだが、舞台として蔵王が出て来る。

この本も繰り返し30年くらい読んでいるのだけど、飽きません。

蔵王はともかく遠刈田(とおがった)なんて地名はこの本で知った。

本が書かれたのは昭和40年代初頭だが、さすがに基本的な地名等は変わっていない。

でも、蔵王エコーライン以外の部分が未舗装だったりするし、なにより山形新幹線は絶対に開通していない。
そして言うまでもないが携帯電話も無縁の時代。

よっしーは今回この文庫本を携えて出掛けた。
ガイドブックと併せて読みながら動いたのだ。

持っていって良かったというか、現地で読み返すと感動もひとしお。

稲花餅(いがもち)なる名産も、この小説を読むと興味を持つものだがなんと帰り間際に山形駅売店でゲット。

これか〜と喜んで、帰りの新幹線の中であっという間に平らげてしまった(美味でお勧めです)




全てはそれぞれ好みだが、本格派ならではの謎解きの面白さに加え、旅情あり(これが過度でないから良いのだ)
名産のエピソードあり(主にユーモアとして挿入されるが、場合によっては重要なキーワードになることもある)
更に音楽ファンにはたまらない音楽的挿話があり(作品による。しかし鮎川先生は本当に音楽が好きでいらっしゃる)
オーディオマニアにもお勧めしたいのが鮎川哲也先生の作品だ。


8月19日

その前に東北へ来たのはいつの事だっただろうか?

盛岡に友人を訪ねたのが1990年の事だったか?

その前が1986年で、この時はツーリングだった。
CB750Fで青森まで行ってそこから南下、みたいなプランだった。
一泊目が十和田湖で、二泊目が田沢湖という感じで、どういう訳かライダーは岬とか湖が好きみたいだ。
なぜ?(笑)



そうそう、十和田湖ではキャンプ場で爆睡したのだが、翌朝出発するとすぐ検問があった。
全員止められているので?と思ったら、なんと殺人?事件があった様子。
さすがにビックリしたが、何しろ私は寝ていただけです…

これには後日談があって、翌月になってから地元の警察から連絡があった。
追っての捜査が全国規模で行われたようだ。
それは良いが、強行犯課の刑事さんとの都合がなかなか合わない。
携帯なんて影も形もない時代だからすれ違いまくる。

なんともすっきりしないので、深夜にこちらから警察署に赴いたものだ。

形ばかり、という側面もあり、刑事さんも恐縮していたが、なにしろこちらはテントを張って寝ていただけ。
多くを語りようもない。

それにしても深夜の警察署というのは独特の迫力がある。
目の前を腰縄つきの厳ついおじさんが、これまた厳つい警察官さんに付き添われて歩いていらっしゃるのだから
そりゃ迫力満点。
二度と足を運びたくないというのが正直なところ。



…と、東北から話しが逸れたが、この時のツーリングもまた素晴らしいものだった。

実は蔵王付近にも泊まっている。

その時に、お釜を通り過ごしたと言ったら、「ええ〜、モッタイナイ〜」と皆さんに言われたもので
それから26年の永きに渡って“いつかはお釜を見ないと、見ないと、見ないと”との叫びが心の中でエコーしていた?

今回念願叶ってめでたしめでたし。



しかし四半世紀が流れていたかと思うと改めてビックリ。

当時はもう社会人とやらになっていたのだが、学生気分が抜けないというか貧乏性というか
泊まりはユースかキャンプ場。

走るのに精一杯で、土地の名産を食べるとか、そんな事には縁が無かった。

それが最近は食べ歩きの旅みたいになっているのだから老境と言えるかも知れない。

何より、新幹線だ、飛行機だ、レンタカーだと贅沢になった。

途中すれ違うバイク達は一際輝いて見える。

暑さに参ったのだろうか、一人涼を取るライダーなどが居る。思わず声を掛けたくなる。




ところで!

今回の旅で一つだけオーディオネタがあった。

この際に、でなければもうお逢い出来ないのではあるまいか?との想いで奇襲を掛けさせて頂いた。

出会いは12年前。以来つかず離れずのお付き合いなのだがお目に掛かるのはめて。
考えてみれば面白い関係だ?

いわゆるオフ会とは違うのだが、お目に掛かれればそれだけでハッピー。

短い時間ではあったがとめどなく話しは出て来て…


人と人の交わりは本当に不思議なものだ。


…とかなんとかいいながら、最後はしっかりエビでタイを釣って帰ってきてしまった?





拝聴はもう少し涼しくなってからとなるが、なんともありがたくモッタイナイ話しである。

お師匠!またお逢いしましょうね♪



8月21日

さてさて、オーディオ日記という割にオーディオネタが少ないのが特に8月の特徴だが
まあインターネットという規模で見たら、よっしー一人がオーディオネタを書こうが書くまいが
なんの影響も無いもんだ。

暑くてアクティブに動く気もしないので話しはなんら変わらないがP-610平面バッフルを
デジアン(ステレオ誌付録の物)で鳴らし、ソースはFMオンリーで充分満足してしまっている。

旅の仕方が20年余で変わったように、オーディオへの接し方も10年余の間に変わってきたのだろう。

あるいは情熱の枯渇。老成化なのかもしれないが、それを言っても始まらない。

なによりP-610平面バッフルは大変魅力的な音がしている。
なぜ?という位素敵な音だ。

帯域がどうとか、そんなことはどうでもよろしいという感じ。
それに充分広くて、間違ってもラジオの上と下を伸ばしただけ、みたいな音ではない。
これも一種のハイファイだと僕は思う。

低音もたっぷりゆったりとは違うのだが、確かに低音があるのだ。
レスポンスの良さは、やはりユニットに背圧が掛からないからなのか?
ナチュラルな量感というのは大きなバッフル故なのか?
推測で物を言ってはいけないが、多分そういうことなのだろう。

敢えて言えばトーンコントロールでバスを適度にブーストすると楽しさが増す。
デジアンにはトーンコントロールが無いのでそれだけは物足りないが
とにかく電力で発熱ゼロという事を考えると夏はこれで乗り越えたいと思うのだ。
それと夏はFMが合う。これは個人的な想いに関わることだろうけど、8月はやっぱりFMなのだ。

実はこれもFMを聴きながら書いているのだが、NHK FMが特に良いと思う。

島袋寛子さんのミューズノートでノラ・ジョーンズさんの特集だった。
ノラの曲はもちろん素晴らしいのだが司会の島袋さんが素敵…と思って調べたら
島袋さんってあの、SPEEDの…?

無知って怖い(汗)
でも凄く素敵な番組ですね。
(よっしーは日曜仕事が90%なので、もう滅多に聴けないでしょうが)

あ、その後の現代曲の番組も良い。好みです。
頑張れNHK FM!

…と書いている内に日が過ぎるもので
今はサイモン&ガーファンクルの特集をやっている。

正直言います。
これまでS&Gのレコードを掛けて、良いと思った事が一度も無かった。

が、今FM+デジアン+P-610平面バッフルで聴くそれは
とてもとてもとても素晴らしい。

これはどうしたことでしょう?

私にはもう良くわかりません。


8月22日

わ、ベンチャーズも良いぞ!

真夏の夜の偉人達?だっけ?

NHK FM万歳。


8月23日

デジアンを使うとスピーカーマトリックスが出来ない。
これが唯一残念なところだが、まあ音場というのはソース次第という面も大きい。
FMでも野外の音を収録みたいなものはフロント二本だけで容易にサラウンドする。
(位相を弄っているとかそういうことはあるかもしれないが)
だからあんまり気にする事はない。

それよりその音の生々しさに驚く。
大きな太鼓の音なんかも16a平面バッフルは見事に再生する。

見事、といっても圧倒的大音量再生なんかやったらバタバタするだろう。
しかし、そんな事はどーでもよろしい。

それよりやっぱり面白いのは、その“低音”だ。

雑誌の受け売りみたいで嫌だが、背圧がユニットに掛からない良さがあるのか
とにかく低音も“速い”のだ。

音が活き活きしている。
且つエキセントリックになりすぎていない。
ここが惚れる理由ということになる。

フツーのピアノの音なんかも実に良い。


8月27日

30年弱前の8月26日。僕は函館から青函連絡船に乗って北海道を後にした。

それは素晴らしい旅だったけど、家を出てから3週間になると
いい加減に自分の部屋のベッドで寝たくもなるというものだ。

青函連絡船というのも乗船時間4時間とかあるので青森に着いたとき
既に結構な時間だった。

八戸まで走ったところでキャンプ場へ。
(東北自動車道で、なんてプランは元から無い)

すり鉢状の、今振り返ると素晴らしいキャンプ場で、
お盆の頃はきっと賑わったのだろうな。

受付は道の反対側にある商店で、そこのおばさんが赤川次郎さんの本(角川文庫)
を読んで居たことを覚えている。
それと、そこで買った菓子パン(翌朝のご飯代わり)が一つ腐っていたのも
懐かしい思いでだ(食べなかったよ)

そんなキャンプ場に、泊まりは僕一人。
北の方角にイカ釣りのいざり火なんかも見えて、すごいロケーションだったなー。

でも、とにかく家に帰りたくて仕方ない。
翌朝5時には目が覚めて走り出す。

“今日は徹夜してでも走って家に着くんだ”

そう思いながら走る。

コースは三陸のリアス式海岸だからうねうねと道は曲がり
時間の経過ほどには南に進まない。

しかし、急いでいる時ほど飛ばさないのがよっしーのエライ?ところだ。

高速は別にすると、長い距離を走りたければとにかく休憩しないのが大事。

飛ばすのは良いがそれで休憩を長くしていたら結果的に遠くへはたどり着かない。

メモを見たらわかるが、この日僕は一般道オンリーとしては
自己最長距離を走っている。

それでも仙台あたりで既に日は傾きはじめ、
福島より手前のあたりですっかり日が暮れる。

それでも徹夜で…という思いを打ち砕いたのが
襲いかかってくる“”達だった。

灯り一つ無い農道を走っていると、バイクのヘッドライト目がけて
無数の虫たちがぶつかってくる。

ヘッドライトにぶつかれば虫さん達はお亡くなりになってしまう。
それは先方の勝手なのだが、ヘッドライトに当たり損ねた方達は
ヘルメットのシールドと言わずジャケットの胸の当たりと言い
かまわず当たって果てるのだ。

これがもう怖いし痛い

げんなりして、とりあえず食事、ということで街道沿いの定食屋さんに入る。

もう泊まる気もなかったから宿もなにもあてがない。

食べながら聞いてみた。”この当たりにキャンプ出来る場所はありませんか?”

(続く)


8月29日

”キャンプ場?あったかなー?
これからテント張る?”

”それよりウチに泊まってったら?

”へ?い、いやそれはちょっと…(汗)”

“うん、店ももう終わるし、かみさんはもう家に帰っているから大丈夫だよ”

“だ、大丈夫って言われましても…”


ツーリングでの面白い話しはたくさんあるが
この時はかなり驚いた。

そりゃ人畜無害の顔に見えるのかもしれないが
今出くわしたばかりの赤の他人を家に泊めてくれるって、アナタそれは凄い…


非常にありがたかったのだが、ケッコー人見知りのよっしーは
そんな事になったらどう会話して良いかわからないと思い固辞した。

その代わり、という訳でもないのだが
お店さまの裏(だったと思う)にはひろーい空き地というか砂利の駐車場だったかが
あったので、“そこにテント張っても良いですか?”と尋ねてみた。

“お、おおー良いけど。じゃあウチの(軽のワンボックス)があるから
その中に寝りゃいいじゃない”
“今停めてある場所だと朝眩しいからさ、好きな所に動かして良いよ”

“…あ、あありがとうございます”



ということでよっしーは鍵を預かってその軽自動車の中で寝袋を広げてお休みさせて
頂いたのだった。

翌朝、朝早く、今日こそ家に帰る、の只その一心で目覚めたよっしー。
お礼をどうしたら良いかと思ったが、出来る事と言えば礼状を残すことくらい。

今振り返ると実に青臭いメッセージだったが、感謝の意を込めた手紙を
お店の引き戸に挟んで走り出したのだった。




…ところで今回深い意味はなく、ただ28年前に、そんな事があったなー
位の気持ちで書いたのだが思い立って昔のアルバムを引っ張り出してみた。



これが八戸のキャンプ場。
種差キャンプ場だった。
このキャンプ場は今もあるようだ。



松島でのワンショット。
撮影者のシルエットが思いっきり映り込んでいるのが微笑ましい。

影が長いところから大分日が傾いている時刻なのがわかる。

…だがしかし、この景観もあの日をに変わってしまっているのだろう。

取り上げておいてなんだが、その事を言いたくて今回の日記を書いた訳ではない。

しかし、改めて、僕があの夏しみじみと走ったあの道も
目の端に止めていたあの街並みも変わってしまったのだろう。

27年後にそんな事が起きるなんて、それは想像すら出来なかったことだ。



とどめに、そのお世話になったお店さまでのワンショット。
これはが来て、出発の支度をしている途中で撮ったものだろう。

この写真を見て思い出したのだが、お店さまの名前は食事処やまだ
さんと言うのだった。

ここまで書いて猛然と気になってネットで検索を掛けてみた。

何しろ28年前のことだ。正確な場所は思い出せない。
しかし福島県 食事処やまだ で検索を掛けると
それらしいお店さまがヒットする。

こんな時代だから画像まで出て来てしまう。

果たしてそれが28年前のあのお店なのか?

断定は出来ないのだがネットで得られる写真と上の写真を比較すると
店舗の形など実に似ているのである。

ネット上の写真の撮影時期は2011年12月となっている。
とするとお店さまは無事だったということだ。

思わず安堵する。

もちろんその食事処やまださんが、28年前のあのお店さまと
決まったわけではないのだが…

(続く?)


8月30日

この夏は東北に旅行したし、
ツーリングの話しも東北が多かった。

ただ、特に何かを狙った訳ではない。

本当に偶然の成せる技。

東北といっても広い。

今回お伺いした先は内陸だったので
震災の被害と言っても旅行者が目で見てすぐわかるようなものはなかった。

実際、”がんばろう東北、というよりがんばろう海岸付近”が正しいのですよ、
と現地の方からも聞いた。
そうなのかもしれない。

同じ宿に泊まった方は、なんと一時期はよっしー宅から
そんな遠くもない所に住まわれていたという。

しかし震災の時には、正に宮城にお住まいだったのだ。

5分くらいの違いで海岸線沿いの道が封鎖され、内陸部に向かったことで
九死に一生を得た、というようなお話しや
地面が、なんというか渦を巻いて回っているような感じだった
などという話しを聞くと、よくぞご無事で今ここで僕と話しを…
と思わずにいられなかった。

本当に甚大な被害を被ってしまった方の苦しみや悲しみは
当人にしか本当の意味ではわからないと思う。

これは今回の件と限らない。

例えば家族に具合の悪い人が出たとき
本当の苦しさや悲しさはその家族にしか
実際にはわからないと僕は思っている。




8月31日

昔は8月31日が夏休み最後の日だった。

8月31日というのは夏休みが終わってしまうという
それはそれはインパクトのある日だったのだ。

そしてもう一つ。よっしー家にとっては思い出深い日なのだ。

よっしーの父は夏休みが40日もある公務員だったくせに
家族サービスなどという概念が全くなく、
旅行なんてあり得ないし、日帰りだって出かけるなんて気も
毛頭なかった。

まあウチの父と限らず当時はそんなもんだったのかもしれないが
それにしてもあの男は極端だった。

そんなよっしー家だったのだが、なぜか8月31日にだけは
市内にある大きな公営プールに四人で出掛けるという風習があった。

といっても、冷静に考えるとそのイベントも六年間のウチの二年、あるいは三年間だけの
事だった気もするのだが、とにかく子供には重要なイベントだった。
何しろ他に何も企画が無いんだから。

遠足の前の晩に眠れないなどという話しがあるが
よっしーは別にそんなことは無かった。

ただ、この31日のプールに関しては
眠れない事はないのだが、数日前から想像してはワクワクする、そんな事はあった。


とにかく朝早く(といっても大したことはないが)に着いて
ひたすらぐ。

途中強制的に休憩させられるタイムがある訳だが
その5分か10分の時間が、もう待てないというか
堪えきれないくらい夢中でプールに入っていた。

お昼はもちろんお手製のお弁当だ。

おにぎりつは簡単に消化してしまう。
そしてまたすぐ泳ぐ。

母はずっとプールサイドに居て、それを見て僕は
”大人は詰まらないナー。泳げば良いのに”
と思っていたが、今思えばあそこでうたた寝でもしている方が
遥かに楽しいに違いない。
(しかし父は何をしていたのかな?まるで記憶がない)

しかしそんなハッピーな一日にもやがてわりが来る。

夕刻いよいよクローズの時間が来る。
しぶしぶと、プールから上がる。

ゲートを出る時必ずもう一度プールを振り返る

”来年もまた来るからヨ!”と一人宣言するのだ(馬鹿)

そして夏休みは終わる。


今思えばなんてシンプルな夏休み。

帰路の事は覚えていない。
バスでえっちらおっちら帰ったに違いないのだが。
そして絶対に夕飯は外食ではなかった違いないのだが。
たどり着いた家にはエアコンなんか無いのだから、そこそこ暑かったはずなのだが。


後年同じプールに何度か子供達を連れて行った。

行く足はになり、昼食はプールの売店になった。

僕にはそれだけだって深いものに感じられた。

自分たちが子供だった時は、行き帰りのバス代以外絶対に使わなかった。
それが是とか非とかいうことでなく、そういう物だったのだ。

…ここで唐突に、オチのないまま”夏の想い出シリーズ”は終わる。

(完)






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