10月1日
コンデンサーくらいとっとと買えば良いのだが
どうもネットで買うのって難しい気がする。
あれこれ見るのだが、「買い物かごに入れる」とかいうところを
ポチっとクリックする気がしない。
たった数個のコンデンサーなのだから、さっさと済ませれば良いのだが
たった数個のコンデンサーだから駄目なのかな?
やっぱりお店で会話も交えながら買いたい?
ところで若松通商と言えば秋葉原が有名だ。
(秋葉原もいつから行っていないのか?)
だが秋葉原以外にも店舗はある。
それも某市の、実にありふれた住宅街の中にあるのだ。
そこを知ったのはちょうど10年前。
pioneerのM-22の終段トランジスターを物色するため
トラ技だっただろうか?の広告を、目を更にして探していたら
若松の広告の中にそれがあったのだ。
半信半疑で電話を掛けたら、受けた方も「そんなの載ってました?」
みたいな感じだったのだが、検索の結果秋葉原ではない店舗の方にあると判明。
土地勘がある場所だったのでわざわざそこを訪れたよっしーだった。
住所を頼りに行ってみると、これがもう本当に単なる民家がそのまま
店舗兼倉庫になっているような場所。
「ホントにここ?」と思って中に入ると、おばちゃんはとっても親切で
探していたのとペアーになるトランジスタまで「あるよ」と言って
引っ張り出してくれたのだった。
お陰でその後M-22は復活を遂げた。
そんな思い出もあり、コンデンサー目当てに10年振りにそこへと訪れた。
店舗はあった。
しかし…
残念ながら営業は秋葉原一本になっているみたいで
シャッターが降り、寂しく張り紙だけがしてある状況だった。
まあ、そりゃそうだよな、あれから10年ちょうどだもの…と
わびしい中にも、妙に納得をしてその場を去ったよっしーでした。
別にいいんだけど、ただちょっと会話がしたかったのだな、
と一人ごちた。
配線一本見せても、「ああ、これはML規格だね、だいぶ固くなってるなー。
年代物だな」、とか
「いやーこの小分け袋も当世貴重だから大事にしてね」
なんてやり取りをしていると、自分もいっぱしのマニアになれたような
気がして楽しいものだ。
しかし、そろそろコンデンサーゲットしないとね。
直らない状況をいつまでも楽しんでいても埒があかないわな。
10月3日
とっても残念な事に秋葉原まで行く時間は無い。
しかし昨今電子部品を売っているお店というのは少ない。
少ない一つが上の写真にあるお店だ。
電解コンデンサーとリレーを仕入れる事が出来た。
電解コンデンサーは引き出しから自分で数値の合う物を選ぶ。
間違ったら自己責任というヤツだ。
リレー…については絶対に買おうと思って行った訳ではない。
ただ店頭に幾種類も揃っていたので手を出した。
OMRONのを持ってカウンターに、「これ、合います?」と出してみた。
実はこんな事もあろうかと外した基盤を持って行ったのだ。
おじさん(あるいはお兄さん)は「うーん…、珍しいですね…」と唸る。
「すごく古いヤツですから(笑)」とよっしー。
えー、この端子が○○で…、ここに行って…これがあれで…
とパターンを見ながら呟く姿は、僕には神々しくさえ映る。
するとおじさん、あるいはお兄さんはやおら裏手の棚の上の上。
最上段部をゴソゴソして、リレーをひとつ取り出して来てくれた。
それが上の画像にある、黄色いヤツだ。
松下製。
「これが合います」とキッパリ言い切ってくれた。
心強い!
このリレー、なんと特価扱いで300円だった。
OMRONのだったら980円だったのでいきなり三分の一だ。
やっぱりパーツは店頭で買うに限る?
10月4日
まず液漏れしていたっぽいコンデンサーを一本交換。
16v47μFの物。
交換したのは50v47μF。
ずばり同じは無かった。足のピッチもビミョーに違うが
ずばりそのものを探すのはなかなか大変だ。
…結論を言うとそれだけでは直らない。
まあそりゃそうだろう。
もう少し多くの部品を入れ替えてみる必要があるが
せっかく手に入ったのだし、どのみち消耗品だし、という事で
リレーに手を付ける。
言うや易く、であり外すのは大変だったが
悪戦苦闘して取り外し。
記念にカバーを開けて撮影。
さて、問題なのは旧リレー(黒い方)ではピンが8本。
14本中6本は付け根でカットされている。
新品のリレー(黄色い方)は14本のピンが堂々と立っている。
これは当然6本は黒い方同様にカットして使うのかな?
確信が持てないでいるよっしーだった。
「一休みして私と遊ばない?」
「…うん…」
10月5日
しかし不思議だなー。
基盤に受けの穴はちゃんと14個空いているわけだ…
表から見てもちゃんと穴は14個…
しかしピンは8本のみ使用。
不要な6本はやはり根本でカットしておかないとまずいんだよなー??
更に、よく考えてみるとリレーよりもダイオードを交換してみなくては
いけない事にも気が付く。
Zener(ツェナー)ダイオードでWZ-071 (7V)が一本。
ダイオードDS131B (200V)が一本。
え〜とダイオードは種別とVの値だけ合っていれば良いのかな?
ホント基本からしてわかっていないよっしーでした(汗)
ところでここ数日虫眼鏡のお世話になりっぱなし。
拡大鏡と手明かり。
前期高齢者?のアンプいじりにはこれは欠かせない。
10月8日
閑話休題。
皆さんは一年にだいたいどれくらいCDを買いますか?
よっしーはここ数年、CD購入 一枚/一年 みたいな状態が
続いている。
仮にもオーディオサイトを開いている人間として
これはあんまりではないかという説もあるが
さっぱり買いたい気持ちにならないのだから仕方ない。
世の中にはiPodなどの愛好家も多く、見ればお耳にヘッドフォンを
差し込んだ状態の人も多い。
ところがよっしーと来たら全然だ。
…その代わり…というのも何だが本をよく読む。
電車等での移動中の時間はすべて本に充てられることになる。
もっとも買うのはもっぱら100円の古本ばかりだ。
何しろ読むのが早いので、そうでもしないとサラ金のお世話になること
間違いなし?
しかし恐ろしいというか50円100円で名著良書がどんどん読めてしまう。
出版不況も頷ける。
上の本なんか上下二冊で100円だ。
バチが当たる。
渡辺淳一先生の、「遠き落日」
野口英世の伝記物だ。
いきなり野口英世と来ると驚かれるかもしれない。
しかし少年期のよっしーは野口英世博士に
かなり感化された一人だ。
そのきっかけは小学校三年生の時に読書感想を書くために
伝記物シリーズの中にあった「野口英世」を読んだことだった。
まあ小学校時代にそんな経験をした人も多いだろう。
野口英世に感化されてよっしーが医者になったという話しは無い。
ただ、野口博士は、「机に向かう事の格好良さ」、をよっしーに教えた。
よっしーはこう見えて、かなり単純な人間なので、野口英世が
寝る間も惜しんで机に向かう姿に、一発で惹かれてしまったのだ。
(しかし形から入るというか実に単純極まりないヤツだ、ほんと…)
(続く)
10月11日
しかし本当に単純だったしか言いようがない。
感化されてやたらと机に向かう。
当たり前だが成績も上がるのだが
本人は成績のために、ではなくて単に野口英世の真似をしたくて
やっていただけなのだ。
さて、野口英世の伝記(少年向けの物)で強く記憶に残っていたものというと
野口英世が手が不自由だったが故にお弁当といってもおにぎりを食べていたこと。
それから有名な学者になってから帰国をした際、
美味しい料理にも舞にも目を向けず
ひたすら老母に献身したシーンの二つだ。
野口英世が「少年物」の伝記にあるような「立派なだけの人」では無かった事は
今では多くの人の知るところだ。
渡辺先生の「遠き落日」も、「人間野口英世」を赤裸々に描いた一作である。
野口英世は偉人ではあるが一方でお金の管理は全く出来ず、
借金をするのは日常茶飯事。更に借りた金を返す気はハナッからないという
それこそただ者ではない人だった。
「遠き落日」はそのあたりをきちんと描いていて、とっても面白い。
しかし「人間」野口英世を知ることで、「伝記の人」野口英世の魅力は
色褪せるかというとそんな事はない。
それどころか益々増してくるから面白い。
極貧に生まれ不幸にして片手が不自由になり、
体格的にも恵まれずいじめられっ子だった少年時代。
母、シカは息子を不具にしてしまったという負い目をしょい続けながら
「お前は学問で身を立てないと駄目だ」と言って
無理を押して野口少年を励まし、陰に日向に支えた。
貪欲にチャンスに食らいつく野口英世のバイタリティーは素晴らしい。
それを男芸者という人もいるわけだが、
僕に言わせればそれはある程度恵まれた者の戯言だ。
本当にとんでもない状況にあり、そしてそこから這い上がろうという気持ちがあるなら
なりふりなど構っていられようか?
もし、僕が今の時代に野口英世の伝記を書くなら
そのバイタリティーを全面に出して強調した物を書くだろう。
なぜかというと今の時代。も少し正確に言うと近未来の日本で
それこそ大切なものになる筈だからだ。
「遠き落日」を読んで、40年振りに僕の野口英世熱は高まっている。
40年の間に僕も大人になり(今更言うまでもないが)
9歳の時には読みとれなかった物が読みとれるようにはなった。
「野口英世」がどんな人だったかよくわかる様にもなった。
しかし、「野口」の人生を読み返す時、やっぱり一番好きなのは
赤貧の中、支え合って偉業を成し遂げた母子が
再会する場面だ。
24歳でアメリカに渡った英世は15年経って初めて一度だけ帰国した。
その15年の間に野口英世は、世界のノグチになっていたのだ。
正に凱旋帰国。
渡るときは見送る人も二人しかいない様な旅立ちだったが
この帰国の際は「国を挙げて」は言い過ぎだが
とにかく盛大な歓迎を受ける。
著名になりすぎて、「まっしぐらに会津にいる母の元に」という訳には
いかなかったが帰国から三日後、とうとう英世は故郷に帰り着く。
以下「遠き落日」から抜粋させてもらう。
”やがて初秋の白く乾いた道の彼方から人力車の列が見えてきた。
田舎の道では、見たこともない長い列である。
その先の車が50bまで近づいたとき、突然、先の車が停まった。
どうしたのか、とみなが見ていると、いきなり黒いモーニングを着た
小柄な男が飛び降り、まっしぐらにシカを目がけて駆け出してきた。
「おっ母…」
母の姿を見て、英世は車に乗っていられなかったのである。
「おれ、けえってきた…」
少年のときの言葉のまま、英世は母に抱きついた。
明るい午後の光の下で、
世界的な学者が母に抱きついている。
人力車に乗ってきた人達も、家のまわりで待っていた人達も
活動のシーンでも見るように身動きもせず二人を見ていた。
「えがったなあ…、えがったなあ…」
シカはただうわ言のようにいってうなずき、英世の肩を叩いた。
苦難をわかち合った母と子の15年ぶりの再会、
と言えばそれまでだが、見方によってはおの情景は異様であった。”
この風景が異様かどうかは個々人の判断に任せるものだろう。
苦楽を伴にして来た母と子。
20代前半で異国に渡った子が世界的な学者となって
凱旋帰国をしてきたのだ。
「いつかこの世界を見返してやろう」
そんな気持ちだってあっただろう。
そして確かに見返したのだ。
これほど素晴らしい再会はない。
二人は抱き合って当然ではないか。
と、今日のところのよっしーは思うのだ。
さらに感動的なのは、例の大阪「琴の家」における
孝養のシーンだ。
琴の家の宴席も、もちろん立派な物だったのだが
英世は同席の学者にも舞にも目もくれず、
ひたすら母と恩人である小林夫人に尽くした。
再び「遠き落日」から抜粋をさせて頂く。
”ここで英世は出された珍味を、一つ一つ説明をしながら
自ら箸でとって母の口へ運んでやった。
これを見た大阪「富田屋」の名妓八千代が、
「あれほどお偉いお方が、jまわりに居並ぶ先生など眼中になく、
ひたすら老いた母に孝養を尽くされている。
私も母一人、子一人の身だが、ああまではできない」
といって、途中で席を外して廊下の端で泣いた。
実際、女将もその場を見て感動し、改めて英世の孝行の深さを知った。
(中略)
大阪毎日新聞の記事は次のようになっている。
…同席の別座敷で、すぐさま昼餐会が開かれると、
膳の上の刺身をとりあげて、
「おっかさん、これは鰹の刺身ですよ、美味しいですか?
小林の奥さん、あなたは焼き魚がお好きでしたね…」
と野口博士は隣の母堂や小林老夫人の手をとらんばかりにして
自分も夢中で嬉しがる。
「山家で生まれ、刺身など覚えもないうちに外国へ参りましてね、
やっとこの十日ばかり前から食べられるようになりましたが
母などはただご馳走にたまげるばかりですよハハハ…」
お相伴の記者に母を紹介される。
やがて招じられた土地名代の舞妓の踊りとなってからは、
母堂や小林老夫人は箸も取り落としそうな顔で気抜けのようになっていられる。
母堂の横顔を、野口博士が覗き込んで、
「どうです、面白いものでしょう、さあ召し上がれ、
松茸のお汁ですよ、その蓋がお椀になるのだそうですよ」
と手ずから給仕に余念もない。”
…以上の様な感じで、これぞ孝心、孝養という感じだ。
もちろん、物の見方というのはそれほど単純ではない。
渡辺淳一先生も同著の別のところで
”一般の常識からいえば、英世は単純に偉いとはいい難い。
孝養を尽くし、母を大切にしたといっても
それは後年のいっときで、大半は不孝のし放しだった。
単に親孝行という…では、素直に家に残った長女のイヌや、
のちに出奔はしたが弟の清三のほうが上である。
英世は口でこそ、「済まねえ」「おっかに悪い」というが、
具体的にはなにもしなかった。
一本の草を採るとも、一片の土を耕すこともしない。
家の惨状を知りながら、また自分だけの世界へ帰っていく。
エゴイストといえばこれほどのエゴイストはいなかった”
と書かれている。
いやはや本当にエゴイスト。
やりたいことに邁進する。
人から金はむしり取る。
幸い「世界のノグチ」になったから良かったようなものの
それだって歯車一つ狂えばあり得ない様な話しだったのだ。
そう考えると本当に偉かったのは英世よりも、その母のシカであり、
英世に魅入られる様に金を工面し続けてくれた何人もの人達であり、
そんな寛容を許した「明治」という時代だったのだろう。
彼ら彼女らは兎にも角にも英世という人に賭けた。
そしてその賭けは大当たりした。
ただ、大当たりしたからと言って配当金を貰えた訳でもないし
出資したお金や労力の5%だって帰ってきた訳ではない。
まあ元からそんな事を求めていた訳ではないのだが、
だからこそ尚一層凱旋とも言える一時帰国のシーンなどに
僕は感動してしまうのだ。
…ということで「よっしーの部屋」には珍しい、読書感想日記でした。
(えらい中途半端ですがね。笑)
何が言いたかったのか…
一つはなりふり構わぬバイタリティーの素晴らしさ。
そして「こいつには凄まじい欠点もあるが
それを補って余りある」と思える相手を許し育てようとした
周囲の並々ならぬ理解。
この二つが今のよっしーの心にはとても響いたということ。
今、という時代にノグチが排出されたかというと多分無理だろう。
それだけのファイトがある人材が居るか?という事が疑問だし、
何より大いなる才能の偏りを包み許せる度量が世の中自体に感じられない。
減点法の中から逸材は育たない。
悪平等をやっていては図抜けた天才は登場しない。
一億総中流などという言葉が、既に過去のものとなった日本で
今考えなければならん事がいっぱいあるのではなかろーか?
…と柄にもない事を書いたが、
当の本人はマランツ1170DCの回路図とにらめっこなのだ(笑)
まずお前が何とかしろ?
こりゃまた失礼致しました〜
10月13日
柄にもない話しから又壊れたアンプの話しに戻ろう。
やる前に判断出来るのが賢い人だとすると
やってみないとわからないよっしーはやはり凡人代表だ。
マランツ1170DCひっくり返されて開腹の図。
こうするとブリッジダイオードやらが見える。
ごちゃごちゃ見えるのはブロックコンデンサーにパラって入っている
フィルムコンデンサーとか。
更に倍率どん!(古い!)
どーでも良いけどここらあたりにテスター当てて
基準の電圧が発生しているかどうか確かめるのが
先でしょうねー。
さて、そうなると一旦外した基盤戻さないといけないけど
あのリレーの端子カットの謎はまだ解けていないゾ。
取り敢えず元のリレーを再装着するかな〜(面倒臭い!)
やれやれ…
10月18日
少し違う話題。
17日土曜日付けの日経に「音楽だって携帯、当然でしょ」
という記事があった。
まあ今更いうのも何だが今年はSONYウオークマン発売から
ちょうど30年の節目の年だった。
今や携帯プレーヤーで音楽を聴くのは当たり前以前の行為となっているが
そのスタイルの確立は30年前に始まったのだ。
そのことに異論はあるまい。
「昭和の大発明」とまで言われる事のあるウオークマン。
一号機TPS-L2の発売が1979年。
録音機能の無いテープデッキなんか売れる筈がないという
予想は完全に裏切られ、ウオークマンは売れた。
知られるようにウオークマンの原型は同じSONYのプレスマン。
最近ではインタビューで政治家の眼前に繰り出されるのは
当然のようにICレコーダーだが、昔はカセットのプレスマンがその役割だった。
当初プレスマンはモノラルでスタートしたが、後にステレオ化される。
そしてこのプレスマンから録音機能、マイク、スピーカー等を省く形でウオークマンが
作られた。
申し合わせたように貸しレコード店が生まれたのがこの頃。
1980年東京は三鷹市に貸しレコード店「黎紅堂」が開業。
レンタルレコード店でレコードを借りて家でカセットに録音。
それをウオークマンで聴く、というのが一般化した。
1981年、二代目ウオークマン登場。
これは全世界で250万台売れたというから凄い。
この頃「FMステーション」創刊。
FMも全盛時代、というかここが頂点だった?
1982年、CD登場。
1985年にはD-50ディスクマンも登場。
これがCD普及に火を付けた事は間違いないが
カセットのウオークマンはまだまだ健在。
何故?と考えるとまだまだCDソフトは高価だったのだ。
そして1992年MDウオークマン登場。
DCCも出たがユーザーは正直で、紐よりお皿の利便性の方が好まれて普及。
音飛びの点でもCDよりMD優位。
しかし時代の流れはますます速く、1999年にはメモリースティックウオークマンが登場。
2001年にiPodが出てとどめとなる。
…と、今更何を、という様な事を書いたが
興味深いのは音楽ソフトの売上高。
バブル崩壊の1990年代、音楽ソフトの売上は伸び続け
日経の記事も参照しながら書いているのだが1998年ピークに達している。
そこから段々下げているのはご承知の通りだが
一方で2005年くらいから音楽配信が盛んになる。
パッケージメディアを買うのではなく、ダウンロードして携帯プレーヤーに
取り込んで持ち歩く。
これが今のスタイルだ。
10月21日
資料でも見ればわかる事をくどくど書いたが、そのことはどうでも宜しい。
それより面白かったのは「機器がスタイルも変えたんだ」というところだった。
父、おい、家の中でぐらいイヤホンはずさないか。
娘、え、何?ごめん、ケータイで音楽聴いてたよ。
息子、騒音をまき散らすよりいいと思うけどな。
*う〜ん…家でもヘッドフォン外さないというのは我が家でもあるなー。
っていうか昔の自分がそうだったけど(笑)
しかし騒音をまき散らすという意味では我々の方が凄かった。
いや、今でも凄いといえよう。
その意味では今の世代の方が遙かにモラリストだ。
父、まあヘッドフォンで音楽を聴く文化が広がったのは
1980年代だからなあ。
息子、ソニーのウオークマンでしょ。持ってたの?
父、一号機を買ったよ。衝撃的だった。
歩きながら音楽が聴けるなんて。
*ヘッドフォンで音楽を聴くというのが文化だとは知らなかった(笑)
ウオークマン以前にも外で音楽を聴くという事をやっていた人は
多分いる。
ただ、そのスタイルが市民権を持ったのはウオークマンが出てからだろう。
それは言える。
それと軽量のヘッドフォン。これもポイントだったと思う。
娘、それまではどこで音楽を聴いてたの?
父、そりゃあ部屋さ。ステレオの前に座って、歌詞カードと
にらめっこしながら音楽と向かい合うんだ。
息子、それじゃあ他のことは何もできないね。
父、音楽とはそういうもおの。「ながら聴き」なんてとんでもなかったが
新しい機器の発明が生活を変えた。
*別にイージーリスニングという発想は昔からあったから
ながら聴きをしなかったというのは事実と違う。
ただ、ステレオの前に座って歌詞カードとにらめっこというのはあった(笑)
確かに音楽を神聖な物とみる傾向は今より遙かに強かった。
母、車窓の風景までそれまでと全然違って見えたわ。
*やっとお母さん登場。
しかしこの気持ちはわかる。
どこでも音楽が聴ける、ということ以上にこの事の方が重要だ。
同じ曲が目に見える風景次第でまるで違う物に聞こえたり
逆に風景の見え方自体まで変わってしまったり。
このあたりの感動は自宅限定で音楽と向き合っていたら
絶対に得られないものだ。
これはカーオーディオの重要性みたいな物を語る時にも重要で、
流れる景色の中で聴いたとき、散々聴いた曲に新たな感動が生まれ
思わず涙した、などという人も多いだろう。
父、当時は若者必携のファッションアイテムでもあったんだ。
(中略)
父、一号機に衝撃を受けたというコラムニストの小田嶋隆さんは
「当時、ヘッドフォンをした若者は外の社会を閉ざしている
と冷たい目で見られた。年長者にとっては集団の和を乱す
目障りな存在だったはず」と言っている。
娘、そんな大げさな。
父、大人に迎合したくはない、という気分を表すのに格好の道具だったんだろう。
*ファッション、というのはあったと思う。
自分の周りでも所有率は高かった。
それからヘッドフォンをしっぱなしで大人から怒られるという経験は
よっしーにもある。
よっしーの息子や娘もヘッドフォンをしっぱなしというのもある。
特にうちの爺さんと一緒に過ごさなくてはならない
などという時はせっせとしている。
これは無理もない。
若者に肩入れする訳だが(笑)大抵の会話に意味など無い。
聴く価値が無い、で済めば良いが、聴くだけ害悪みたいな話しも多い。
そんなもんに耳を貸す暇があったら有益な物を聴いた方がよろしい。
若者に「ヘッドフォンをするな」というよりも
無責任無自覚に要らぬ発言をお前がするな、という方が良い。
母、今は老若男女問わずイヤホンをしているわね。
*そうなのだ。世の中いい加減なもので、してる方が多数派にでもなれば
途端に文句を言わなくなる。
フ、ザ、ケ、ル、ナ(笑)
父、それはiPodのnanoが出てからだろ?
息子、あの凄さは小ささより、家から持ち出す曲を選ばなくていい点だよ。
母、カセットテープ時代は出かける時に「今日はこの三本」とか
やってたでしょ。
*そうそう、それは言える。
よっしーなんか心配性だからデイパックに5本〜10本入れたりしていた。
ただ、それより先に電池の方がダウンして、その事の方が
悩みの種だったっけ。
父、ウオークマンが発売されたころは、レコードの曲を編集したカセット作りにも凝った。
自分で考えたテーマに合う曲を一曲づつ録音して。
娘、暇ったんだ(笑)
*そこの娘、大きなお世話だ(爆)
…っていうかその通りです(核爆)
しかし例え手持ちの物を録音するだけだって
今思えばクリエイティブな行為である。
どんどん便利になって、今のオーディオでは
出来合いのソフトをいかに再生するかが偏重されている。
これもオーディオ衰退の一因だったと思える。
父、レコードレンタル業界もあの一台が育てたと言える。
それで音楽に触れる機会が増えて、結局音楽業界全体のパイも広がった。
*なるほどそういう事でしたか、という感じ。
確かに家でしか音楽は聴けませんとなったら
音楽に触れる時間なんかありゃしない。
それでパイが拡大。
良かったではないか。
ただ、どんな業界でもそうだが
一旦パイが広がるとその後が大変だ。
「前年対比」という考えだとどうにもならなくなる。
どうにもならないのをわかっていても会議では目を吊り上げる。
時間の無駄なのだが無駄を完全に省けば失業率だって高くなる。
痛し痒しかな。
落ちてきたと言っても音楽ソフトに占めるレコードCDの売り上げは
1990年頃よりも今なお高い。
それでは納得がいかない、と憤っても仕方ない気がするが…
父、プレーヤーがこれだけ進化して音楽を聴く手間が簡略化されると
音楽が持っていたある種の神聖さまで失われたようにも思うね。
娘、あら、好きな音楽を好きな時に好きなだけ聴けるのは
悪いことじゃないわ。
息子、家の外で楽しめるものはゲームもケータイもワンセグもある。
音楽もその一つ、という感じだけど。
母、娯楽が少なかった分、昔は音楽への思い入れが強かった。
そういえば国民的ヒットもなくなったし、ちょっとさびしいわね。
*なんでもそうだが入手容易となるとありがたみは減る。
これは致し方ない。
人間というのは「慣れていく生き物」なのだ。
感動するのは手に入った瞬間だけ。
次の日から当たり前になり、そのうち厄介者になる。
なんだってそうだ。寂しいと言えば寂しいが。
またその逆に、便利が当たり前になると小さな悲劇も増える。
誰かが言っていたが、「不便は不幸と違う」のだが。
しかし一旦便利に慣れてしまうと、その便利が失われた時、
いきなり「不幸」を感じてしまうのが人間だ。
世界的に見ればまだまだ豊かな国で「不幸感」がはびこる。
「あの頃はあんなに良かったのに…」というのが昨今の嘆きの原点か。
「もっと振り返れば元は何も無かったのだから頑張ろう」
くらいの事を、国を挙げて言っても良い頃ではあるまいか。
もっとも、更に振り返って、更に振り返って、といって
石器時代まで戻るのはよっしーもさすがにごめんこうむりたいけどね(笑)
さて、30歳となったウオークマン一号機。
久し振りに聴いてみるとガリ等若干あり。
これは仕方ないがピッチがやけに上がっている。
もっとも、他のデッキで録音した物を再生しているのだから
ある程度仕方ないが…
残念ながらこの機種にはピッチコントロールは付いていない。
考えてみれば再生専用機にこそピッチコンは必要だったかな?
「お客様、ご意見はありがたいのですが
30年遅かったかと…」
俺がSONYの人ならそう言うでしょう(爆)
いつまでも大切にしたいと思います♪
10月23日
想定外の余談だが、昨日とあるところでiPodの話しになった。
よっしー「今いったい何曲入っているの?」
Kさん「4000曲くらいかな〜」
よっしー「俺だと一生掛かっても聴ききれないなー(笑)」
Kさん「ええ、もう何が入っているかわからないですよ、
インデックスとか付けていてもまるで駄目です(笑)」
よっしー「だよねー」
Kさん「だからシャッフルにしてその時掛かる物聴くんです、結局」
よっしー「俺はカセット三本でいいやー」
Yさん「カセットって凄いよなー。コンビニで今でもテープ買えるし」
よっしー「カセットは不滅です。それからですね、
先日ウオークマン出してみて思ったんですけど
カセットだと飛ばし聴きしないんです」
Kさん「おおー、なるほど」
よっしー「カセットだと次の頭出しなんて至難の技だし
第一モーター不要に回していると電池が直ぐダウンしちゃうから出来ない」
Yさん「気持ちが穏やかになるねー、それは」
よっしー「そうなんです♪」
Kさん「今こそカセットの時代ですかしら?」
…ということでした。
やっぱりカセットウオークマン持って街に出ようかな?
10月24日
話しがあちこち行くが仕方ない。
マランツ170DCだ。
基本に立ち返り、まず基準となる電圧があるかどうか?
170をひっくり返して開腹。
取り敢えずブロックコンデンサー直後の+50Vと-50Vはきちんと出ているところまで
確認した。
これは正常。
次はやはりあの基盤。
どこまで正常な電圧が来ているか追う、と書くのは簡単だけど
電源が入った状態で基盤にテスターを当てるなどというのは
よっしーがやるんじゃ自殺行為だ。
未交換の電解コンデンサーいくつかと
ダイオード何本かを交換してみる方が遙かに現実的。
問題はツエナーダイオードの規格が今ひとつわからないこと。
(耐圧不明)
取り敢えず先に電解コンデンサーを換えてみる。
どのみち消耗品だから交換して外れでも無駄ではない。
10月30日
普通免許で125CCのバイクまで乗れる様にしたらどうか?
という議論があるらしい。
バイク。
これほど素晴らしい乗り物は無いのだが
2009年のバイクの国内販売台数は
最盛期の8分の1というから悲しい。
再三書いてきた(かな?)と思うが、今時の若いもんはバイクなんか乗らない。
車も乗らない位だから当然か。
それで良いと思う。
良い物とは言ったが危険な乗り物である事は間違いない。
散々乗ってきたから言えるのだ。
それにしても125CCというビミョーな排気量が良い。
これは原付二種というジャンルになる。
いわゆる原付は50CC迄のバイクを差し、
簡単な筆記試験だけで取れる原付免許で乗れる代わりに
制限速度は30Km/hだ。
実際問題時速30キロで街を走るとどういう事になるかというと
「ただのはた迷惑」=「殺意の対象」となる。
だからと言って下手にアクセルをひねるとたちまちスピード違反ということで
お縄を頂戴する羽目になる。
これが51CC以上となると制限速度は50キロに上がり
世の中の車の流れに乗って走っても大丈夫という事になる。
バイクの世界も幅は広く、一つの憧れとしてオーバー1000CCの
リッターバイクなどもあるが
構えずに、良い意味で気軽に乗れるという点ではスモールバイクに軍配が上がる。
シティーコミューター、などという言葉があるが
125CCクラスのバイクというのは、正にコミューターであり
街を走る乗り物としてはかなり理想に近いものがある。
(続く)