8月3日
おっと8月だ。
毎度の事ながら6〜7月はあまりに忙しくて
気が付けば8月というのはいつものこと。
さて、いつの頃か忘れたが勤務先の傍に古本屋が出現した。
これは大変ラッキー。
お陰でほぼ毎日本を買える。
…と言っても買うのは100円均一の物ばかりなのだが
それでも常連さんなのは間違いなし。
ところで最近古本屋さんでさっぱり見ないのが
片岡義男さんの本だ。
出回り過ぎたのか?理由はわからない。
同じように数が出ている赤川次郎さんの本は依然並んでいるのだ…。
さて、片岡さんの本も随分読んでいる。
いつでも再入手出来ると思って買っては処分してしまったのだが
こんなに古本で買いにくくなるとは想定外。
今回求めたは「8フィートの週末」ということで
おわかりの通りサーフィンが重要な位置づけとなっている。
実は僕は片岡さんの本でもサーフィン主体の物はほとんど読んでいない。
他意は無い。ただサーフィン自体に興味がないだけ。
逆に乗り物主体のものは片っ端から読んでいる。
まあそんな事はどうでもよろしい。
片岡ワールドは道行き物だろうがサーファー物でも、変わらず一定だ。
片岡さんの小説をして、「足のある幽霊が出て来る物語」と称した人がいる。
言い得て妙かもしれない。
浮世離れというか現実離れというか、ファンタジーというか、
こんな人間この世に存在しないだろう、みたいな人物のオンパレードだ。
そこが堪らなく良い、と僕などは思えるからファンでいられるし
そう思えない人にとってはこれほどどうでも良い話しは無いのだろう。
しかし浮世離れって良い言葉だ。
浮き世なのか憂き世なのか。リアルな社会ってヤツはどうにもやり切れない
面がある。
もちろん、そのリアルな社会っていうものも
それぞれの各個人が作り上げているものだと言われりゃそれまでだが
仕組みやしがらみもあってなかなか抜け出せないってのが
本当のところじゃないのか。
そんな憂き世とまるで無縁の如き世界が、例え紙の上であっても存在するのは
やっぱり、ああ素晴らしいと思ってしまう。
こんな物を書ける片岡さんは一体どんな日々を過ごしているのか。
一度覗いてみたい。
あ、そういえば何年か前の某雑誌で片岡さんのオーディオ装置について
ちょっとだけふれているのがあった。
その時片岡さんは確か引っ越しをしたばかりで、
オーディオ装置は並べられてはいるが配線はされていないという話しだったと思う。
なんだかとっても片岡さんらしい話しだなーとその時思ったよっしーだった。
追伸:ついに遠近両用眼鏡デビューしました♪
8月9日
本当は本の話しの続きをしたいのだが時節柄別件に一度行く。
毎年この時期になると地元の納涼祭の話しになる。
本当は「青年ボランティア部」の面々と、一緒に焼き鳥などやりたいのだが
(それはそれで大変なのだが)
仕事柄というか音響係をやらざるを得ない。
この音響がまた凄い音響で、その昔は家庭用のミニコンポ(!)他で
その場をしのいでいた。
あまりの酷さにあきれかえり、
その後自宅のJA-S71やネッシーを持ち出したりと凄い事をやったが
昨年からは予算もちゃんと取り、パワードミキサーや
PA用スピーカー四発をレンタルして貰えるようにした。
笑えるのはそれでもメインの音源はカセットテープなので
我が家のカセットデッキは年に一度、この出番があるばかりに
延命を続けているのだ。
ピンケーブルも、ここには写っていないACタップもごくごくフツーの
並品を使用している。
高級品を使うまでも無いからというのもあるが
もう一つ。トラブルを避けるためには、このフツーの品が良いのである。
例えばピンケーブル。
ジャックがごつ過ぎると機器のジャックに負担が掛かる事が多い。
自重でジャックが傾いて接触不良なんてこともある。
重厚長大が常に賛美されるとは限らないのだ。
プロ用と訊いて音が良いと思うのは短絡的だというのは
もはや通説だがその通り。
プロの現場。特にやり直しが効かないライブの場では
一番いけないのは「音が出ないこと」であり
逆にいうと「音が出ていること」がまず優先。
単純で融通が利いて、結果的にタフな物が尊重される。
僅かな音の向上のために血眼になれる「家庭用オーディオ」とは
ある意味非常に「箱入り娘」的な世界なのだ。
それにしてもこのアナログ機器達の丈夫なことよ(!)
DD-5もK75も立派に現役だ。
DD-5なんかベルト劣化の心配もないと思うので
息の根が絶えるまで使われるだろう。
源であるテープ達も20年物10年物が標準(爆)なのだが
蛇行しながらも音楽は一応伝えるのだ。
これは大切な事である。
デジタルはひ弱だとは言わない。
だが画像最下段のコンパチ(町内会備品)
は本番直前に突然死してしまった。
急遽自宅からCDX-620を持ってきて事なきを得たが
この辺りがデジタル機器の怖いところというのはある。
(実は例年バックアップ用にディスクマンを持参するのだが
齢16年で我が家のディスクマンもいよいよ死んでしまったみたいだ)
なんやかんやで無事に終わった、町内会のお仕事。
余談を一つ。
片づけをしていたら、「いつも良い音楽を掛けて頂きありがとうございます」
とオバサン(失礼!)に言われた。
良い音、ではなく「良い音楽」だ。
よくよく話しを訊くと'80年代や'90年代の音楽が掛かっていて
とても懐かしかったということ。
狙ったわけではない、町内会館にあったテープを掛けただけだ。
ただ、これからはやっつけ仕事ではなく
選曲まで張り切ってやってみたくなった。
人に喜ばれるというのは良いものだ。
これも部屋にこもって黙々とやっているだけのオーディオであったら
得られない喜びだ。
「音が良かった」と言いに来てくれる人はいないのだが
それは逆に言うと最低限のPAが果たせていたということだ。
音が気になるようでは駄目なのだ。
「良くて当たり前」の域にいなくてはならない。
「水と安全は只ではない」と言いたいが、
まあ「当たり前」と思わせるくらいじゃないとプロとは言えない。
その意味ではこの国にはたくさん「プロ」がいると思うのだが
なかなか陽が当たらないのは良いことなのか悪ことなのか…
註:よっしーは音響のプロではありませんので
一応念のため…
8月29日
夏の終わりと秋の始まりを兼ね持った空が美しい。
虫の音も同じで、夏の虫たちは、その季節の終わりを認めないとばかり盛大に鳴く。
一方で秋の虫たちはこれが自然の摂理とばかりに、ひっそりと
しかしこの立場は譲らないという頑なさを内に秘めて鳴く。
淘汰や交代という言葉が、自ずと頭をかすめる季節だ。
…それはよいが「8月にはオーディオ再開」はちょっと難しかった。
そのための動きは始まっているのだが
オーディオ装置を並べて結線するのは最後の仕事だ。
その前にやらねばならぬ事がまだまだある。
しかし、確実に「その時」が近づいているのも確かだ。
再開するオーディオは、昔とは違うスタンスで始まるはず。
楽しみではあるのだが…
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