いささか遅くなってしまいましたが 新年明けましておめでとうございます。 2007年の幕が開いた。 佳きことの多いことを祈っている。 ただ、色々あって浮かれた気分にはなれないでいる。 どちらかというと厳粛な…というところ。 そんな事もありオーディオ日記の幕開けも例年より遅い。 また掲示板でのレスも今ひとつ。 更にいうとリンクして頂いている方々への 新年のご挨拶も出来ていない。 ちょっと、いや、かなり申し訳ないスタートですが 何となくわかって頂ければ…と思います。 すみませんです。
いやいや、年末年始、木材をカットする事が 多かった(といってもそんなに大した数ではないが) 今現在主に相手にしているのが 2×4材。 スプルースで38o×89oの断面を持つ物。 よっしーは基本的には木材カットはお店任せ。 お金を払ってでも時間と労力をカットしたい口だ。 第一機械でバッサリ切って貰う方が 精度は遥かに高い。 なので手引きはほとんどやらない。 ただ、ちょっとこれだけ切りたいな、みたいな時は どうしてもやらざるを得ない。 電鋸の購入もこの20年考え続けている。 だが、どうも基本的に電動ツールというのが 性に合わないみたいなのだ。 …というか指を切りそうで怖い、というのが正しい。 特にのこぎりなんか怖い。 ところが不器用だから手引きをすると必ず笑ってしまう様な 結果が出る。 それがどうしてのこぎりを買う気になったかというと 以前子供のために買ってやった手引き鋸で ほとんど戯れに切ってみたら案外上手く切れたのだ。 その鋸も決して高価な物では無かったのだが “やはり道具は大事だ”と痛感した。 そこで、もう少し大きい物(レギュラーサイズという意味)を とホームセンターに走った次第。 ま、だいたい1000円くらい、と見当を付けて行ったら なんとなんと、580円で立派な物が買えてしまった。 見た瞬間に、“これなら大丈夫”と思ったが 使ってみて間違いで無い事が確認出来た。 こんな物が580円で買えてしまうというのも良いのか悪いのか わからないが、こうなると鋸を目立てしてまで 使おうなどという人は今でもいるのかな?(きっといるのだろうが) と思ってしまう。 買い換える方がきっと楽だもの。 ということでよっしーは最近時々、黙々と鋸を引いている。 一種の精神安定剤みたいな物になりつつある。 鋸を引いている時間は無我の境地になれるから。 そして、“上手く切れた!”と思う時は 軽く快感を覚えるのでありました。
オーディオと、ますます関連が無さそうだが 実は関連が…無い。(あれ?) それにしても昔は文章を書くと言ったらペンとか鉛筆だった。 ところが今では大抵の場合キーボードを使う事になってしまう。 実はよっしーはその昔“ワープロ否定派”だった。 だから実際のところワープロは経験していない。 “ワープロって良いよ”といわれた事も幾度かあったが “頭に浮かんだ事を文章にするのに時間が掛かって駄目” “頭に浮かんだ事を即座に書くことが出来る装置でも 無ければ駄目” などとほざいて受け付けなかった。
キーボードで打つ方が遥かに早い。 もうこのスピードと比べたら筆記具で書くのなんか 速記でも憶えない限りはお話しにならない位遅いのではないか。 しかもキーボードで打つ場合はどんなに乱雑に打とうとも 出てくる字は綺麗なものである。 手書きではこうはいかない。 …と、すっかりキーボード派に鞍替えして随分経つが どうもこれが脳を老化させる一因となっているようだ。 まず漢字が思い浮かばなくなった。 そりゃそーだ。だって憶えている必要無いんだもの。 いや、これでもよっしーは一般の人と比べたら まだ手書きで字を書いている方なのだ。 それでももの凄い勢いで漢字を忘却する。 それどころか最近はひらがなで書いている時に 実にいい加減な事を書く様になってしまった。 例えば、“たとえば”と書くところを“たえとば”とか書いても 平気でいられる? これもキーボードの弊害だと気が付いた。 こうして打っていて、妙な事を書いてしまったとしても 変換を押すと間違いに気づかされるからその段で修正すればOK。 そんな楽をしているとバカまっしぐらみたいだ。 字を正確に書こうという欲求を無くしたらお仕舞いな気がしてきた。 ま、字と限らない。 何だってそうだ。 間違えたって綺麗に直せる。 わからないことは検索エンジンに訊けば良い。 いや〜、こりゃ便利だが実に危険な事ですね。 本当に危ない。
意識的に増やしている。 まあ稀代の悪筆なのであまりお見せするわけにもいかないが… 写真に写っているのは愛用の筆記具。 ボールペン、はモンブランで正に身分不相応なのだが 頂き物でありがたく使わせて頂いている。 人前で使う事が多いツールなので 100均のボールペンを出すよりは信用されるみたいな効果もある。 (書き味が気に入って使っているので上記はあくまでも 二次的な要因) 万年筆はちゃんとした物を持った事がない。 愛用の物は500円の品。 ペン先とインクは一体型で使い捨ての250円也。 もちろん書き味が性に合っているから使っているのだが 一生に一回位はまともな万年筆を持ってみたいとも思う今日この頃。
この辺もアナログ方式の特徴だ。 キーボードでインク切れということはないのだから。 だが、最近思う。 人の一生もペンのインクみたいな物ではないかと。 全ての人のインクがやがて切れる。 もちろん僕のも、そしてあなたのも、 またどんなに偉い人のも、立派な人のも 立派でない人のも、だ。 これは縁起の悪い事を言おうとしているのではない。 またメルヘンチックな事を言おうとしてるのでもない。 自分のインクの量を知っている者はいない。 またこのインク、ある日突然出なくなる事だってあり得る。 繰り返すが縁起の悪い事を言っているのではない。 だから大切に使わないといけない。 そして同時に、インクが出る内に出さないといけない。 デジタル万能なこの時代だが、こーゆーことを考えさせてくれる 力は、残念ながらアナログな物にしかない。 音もアナログだ。 一度空間に飛び出た音は二度と返らない。 二度同じ音が鳴る事はない。 それは同じ装置、同じ部屋で同じ人が操っていてもそうなのだ。 大切にしなければいけない。 ただ、やっぱりそろそろ多少急がなければいけない。 ものには“良い時”というのもやっぱりあるのである。
しばらくのご無沙汰でした。 オーディオ日記でこんな事を報告するのもあれですが 身内に不幸がありました。 思わせぶりな事を書いても却ってややこしくなるので はっきり書いてしまうとよっしーの妻の母が亡くなりました。 病と闘って15年。 …それ以上は書いても仕方あるまい。 ただただ、今は悲しい。
その対極にある“生”を観る。 命には限りがある。だから精一杯生きなければ… などと不似合いな事は言わない。 ただ、せっかくであれば“楽しく”生きなければ とは思う。 …これ以上自分の言葉として語るのはやめておく。 その代わりに村上龍さんの著書から言葉を引く。 (ここで龍さんが言いたい事は人の生と死、に 直接関する事とは違うのだが) “楽しんで生きないのは、罪なことだ。 わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを 今でも忘れていない。 数少ない例外の教師を除いて、彼らは本当に大切なものを わたしから奪おうとした。 彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。 そんな状況は、今でも変わっていないし、 もっとひどくなっているはずだ。 だが、いつの時代にあっても教師や刑事という権力の手先は 手強いものだ。 彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。 唯一の復讐の方法は彼らよりも楽しく生きることだと思う。 楽しく生きるためにはエネルギーがいる。 戦いである。 わたしはその戦いを今も続けている。 退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは 死ぬまで終わることがないだろう。”
僕はこの「69」が好きでこれまで幾度か買っている。 幾度も買っているのは、時々本棚がいっぱいになると 処分してしまうからだ。 (ベストセラーは捨てても大丈夫、の鉄則はここでも実践している) しばらくすると無償に読みたくなって買ってくる。 そんなことを繰り返している。 高尚なことは僕には書けない。 ただ、“楽しく生きる”努力はしていきたい。 楽しくやっている姿を見て貰うことが供養になるとだけは信じている。 だからオーディオ日記も再開する。 実際のところこれまでも幾人かの近しい人が (オーディオ日記スタート後に)この世を去っている。 病気もあればその他の事情もあった。 その都度、「こんなことをやっている場合では無いだろう」 と思いつつも日記を更新してきた。 “楽しく”過ごそう。 楽しいの意味、解釈も色々だ。 取り敢えず今は“五感を喜ばせる”ことを大切にしたい。 五感の中には聴感も含まれる。 耳も喜ばせて上げよう。 ただ、今しばらく、本当の意味で ”楽しく”“元気に”はなれないかもしれない。 それでも元気になっていこうと思っている。
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