5月13日

このところ長岡先生関係の本
いくつか立て続けに出た。

音友からは
観音力アンソロジー」、
音元からは
不思議の国の長岡鉄男」。

「アンソロジー」の方は
なんだか抜き打ちみたいに登場したが、
なかなか面白い。

分量が多くて、まだ完璧に読めたとは
言えないが、
それだけにCPは高い?


中に、"音のある暮らし
と言う記事が載っている。

長岡先生が著名人を訪問して
オ−ディオ装置を拝見するという企画だ。

当時はステレオ、という切り口だけで、
色々な人のところにお邪魔出来たわけで、
やっぱり良き時代と言うべきだろう。

今ではパソコンがそれに該当する?。

長岡鉄男の日本オーディオ史」によると、
この時期、氏は50人余の有名人宅
訪問している。


「アンソロジー」では
漫画家の水木しげる氏宅と、
そしてもう一人、
映画評論家の荻昌弘氏宅の訪問記事が
取り上げられている。

ここで話しは横っ飛びするのだが、
僕は映画には疎いので、
そちら方面での荻昌弘氏の業績については
良く知らない。

ただ、氏の書かれた、ある一文を拝読して以来
荻さんの事を好きになって今日に至っている。

その一文とは何かと言うと、
鮎川哲哉氏の書かれた推理小説
黒い白鳥」角川文庫版の後書きである。


探偵小説は、閑文字である
に始まる、わずか6ページのその解説には
荻さんの、その"閑文字”である
本格派探偵小説への愛情が溢れている。

ほとんどの人にとって興味は無いだろう、
と思いつつも、ちょっとだけ
そこから抜粋してみる。

"探偵小説は閑文字である
日本の推理小説が、
動機」を重んじ、
現実性を強くおしすすめるようになって、
この娯楽の世界は、
たしかに飛躍的に魅惑の深さと幅をひろげた。
その定説は、疑うことができない。
しかし、だからといって、
閑文字に徹した古典探偵小説の、
豊かな沃野の存在と価値を、
私達がただ過去のなかへ葬り去ってしまっていい
という理由はない。

(中略)

鮎川哲哉の代表作のひとつでもある
黒い白鳥」をあらためて読み返してみると、
作者が、この
"古すぎも新しすぎもしない
長編探偵小説を、
閑文字という徹底した知覚認識のうえにたって、
悠々たる自適のたのしみのなかで書き上げているさまが、
ほうふつと浮かんでくる。

(中略)

これを読み返しつつ当時の時代相をふりかえるとき
今を遡ることまだ20年(註 今から数えると40年余の前になる)
にもみたない過去に、
日本は、まだ、こういう自適の醸造品を産みうる
クラスマガジンの文化を持ち、
それを許し支える「探偵小説愛好者」たちの
たしかな眼力の層があり、
そして、それに泰然と応え得る作者の、
あらゆる意味での「余裕」の実力が存在したのだという事実を、
するどい心の痛みとともに再確認しないわけにゆかなくなる。

私自身また、この当時は、そのようなゆとりで、
映画に対し、映画批評に応じていたのだった。

くしくもこの小説が出た頃から日本をおおいつくした
高度経済成長が、
けっきょく私たちから奪っていったものは、
決して大気や緑や小動物だけでは、なかったのである。


さて、本格探偵小説が閑文字であるように、
オーディオも、また閑文化なのではないだろうか?。

長岡氏がオーディオを切り口に
著名人訪問を果たせたあの頃
作り手にも、また受け手にもですが、
覇気もあり、オリジナリティーもあり、そして何より
この"くだらないもの”を楽しむ余裕があった。

そして、その余裕は、本格推理小説に関してよりは
長く続き、今から遡って20年くらい前までは存在したのでは
ないでしょうか。

今や生活に音楽は溢れ、どこへ行っても
それを再生する装置に恵まれない、などという事は考えられない
僕達の生活。

しかし、泰然とそれらを楽しむという心のあり方は、
とうの昔に(オーディオに関してだけではないのですが)
無くなってしまったようです。


、そのような、
"あらゆる意味での「余裕の実力」が存在したのだ”、という事実を、
僕達もまた、"するどい心の痛みとともに再認識”せざるを得ないのでしょうか。

ちょっぴセンチになった、よっしーでありました。


荻さんがさすがに若い。

黒い白鳥」は
様々な出版社から
再発を繰り返されている。
新しいところでは
H7年に双葉社から出ていた。

読む時は
是非ゆっくりと、、、。


5月15日

ところで、一般に
懐古趣味というとあまり良いようには捉えられないようである。

何となく、後ろ向き的なイメージがつきまとうと言うか、
退廃的とでも言うのか、、、。

確かに仕事の世界では
特に過去の成功事例などかみ締めていると、
ロクな結果にはならない
ビジネスの世界では、基本的に明日に向うのみ、だ。

しかし、趣味の世界では話が違う。

何でもあり、が趣味の世界だ。

懐古趣味だろうが何だろうが許される(筈)。


何でそんな事を言うのかといえば、
どうも既にオーディオも
一部では懐古して楽しむ段階
達しつつあるのではないかと思うからだ。

成熟期を越えた分野では、
当然起こる現象だ。

"あの頃の名器”、について熱く語り合う。

そんなシーンに、ネット上を渡り歩いていると
よく出くわす。
いや、何を隠そう(隠さないが)
自分自身がそれをやっている。


今でもオーディ界も進歩はしているだろうし、
新しい技術には素晴らしい物も多いのだろう。

それらを追求し、飽く事なく研究をしている人にとっては、
そんな事やって何が面白い、と言われそうだが、
趣味の世界は何でもあり、と繰り返すしかない。

思いをはせるのは、オーディオが
(きっとやっていた本人も)
熱かったあの時代へ、だ。

’70〜’80年代のオーディオについて
懐古する時、
それは僕なんかにとっては
なかなか甘美な瞬間だ。


まあ、しかし、こう言った趣味は
ある種考古学的な要素を含む。

過去の製品を、まさに掘り起こすようなものなのだから。

昔の製品について考えるのは
意味が無いのかもしれないが、
20年30年と経って
ようやく本当の事がわかって来るというのは
良くある話しだ。

オーディオ製品の
(特に国産の)ライフサイクル
かなり短い

製品がマスメディアに取り沙汰されているのは
発売直後のほんの短い期間だけだ。

それはそれで良いのだが、
それでわかるのはほんの一部分の事だけなのは
確かだ。

車に例えてみれば、
雑誌に取り上げられているのはせいぜい
最初の車検期間位まで

一部例外を除けば、
10年後、20年後のインプレッションなど
まず取り上げられない。

しかし、真の耐久力などは
そういった長期間の使用の後にわかるものなのだ。


別に耐久力だけの問題ではない。

あるいは、その時代に対しては進みすぎていた製品というのもある。

先進的過ぎて、正当な評価をされないで終わると言う事もあるだろう。

また、たまたま人気商品の陰に隠れて
本当は優秀だったのに
まともな評価をされなかった、
なんて事だってあるかもしれない。

とにかく、その時全ての事がわかるなどという事は
有り得ないのである。
人間は神様ではないのだから、、、。


だから、述懐するというのは、
まんざら捨てた行為ではないのである。

ただし、それは商業ベースには乗らない話しだから、
マスコミの世界では実現不可能だろう。

「あれは良かった。」と評判になって
中古市場が賑わったとしても
メーカーには何の利益もないし、
却って面倒な修理依頼が増えるだけで
正に百害あって一利なし、だ。

馬鹿な特集を組んだら
それこそクレームが付いて
広告が入らなくなる。

昔話は、他所でやってくれ、
と言う事だ。


そうは言われても
その昔話をやる場所がなかったのが今までであったが、
インターネットの普及は電子井戸端会議
可能にしてしまった。

この井戸端会議を止める手立ては無い。

情報は行き交うし、
自体もオークションどで活発に行き交う。

時代は懐古趣味を後押ししている?。

想像を逞しくすると、
これからはマスメディアでも
この懐古趣味というか、考古学に
迎合して来るかもしれない。

その方が売れるような気がするのは僕だけだろうか。

2001年 オーディオ新製品特集」
という本より、
「長岡鉄男 ダイナミックテスト総集編
VOL1 ’70年代
なんていう本の方が売れそうな気がする。


決して皮肉を言っているわけではない。

新製品情報は新製品情報で
必要だろう。
SACDDVD‐Aの話題も大いに結構。

ただ、それと並列して、
古きを知りたがっている人も多いのではないか、
と言う事なのだ。

もっとも、マスコミが参入しなくても、
Web上で充分成立している気もするのではあるが、、、。


先に挙げた、鮎川哲哉氏なども
未だ現役ではあるが
第一線からは一歩引いている

にもかかわらず、その作品は版を変え
毎年のように出版されるし、
アンソロジー本も出される。

それと同じような事が、
オーディオ界でもあって良いのではないかと
思う。

一つ付け加えると、
僕は(オーディオの世界と限らずだが)
進歩を否定しているわけではない

心の半分では、
どうして胸をときめかすような製品が出て来てくれないのか、
とも思っている。

そして、胸がときめかないのは、
実は製品のせいではなく、
ただ単に自分が歳を取ってしまったからではないか、
と自分を懐疑するくらいの冷静さも持っている。

(もうひとつ言うと、金が無いのも一因?)

本格派探偵小説を愛好し、
過去の作品を、それこそ研究堪能しつくしている方々ですら
「鮎川がんばれ」、
と言う一方で、
第二の鮎川、出でよ!
と言うラブコールも送っているのである。


安心して過去に心を飛ばして楽しむためには
明るい未来の見通しも、
やはり欠かせないみたいだ。

ただ、オーディオ評論家に関して言うと、
「第二の長岡、出でよ!」
言う気は無い

一番困るのは
長岡みたいなの」が
流失して来る事だ。

あれはあそこで終わりにしておこう。

でないと失礼だ。

いっその事、まるで違う切り口
迫ってみてはいかがなものかな、と思う。

例えば、
低能率スピーカー、万歳!」
とか、
CPなんかクソ食らえ」
とか、
自作なんてサイテ−」
とか、
「圧倒的小音量宣言」
とか、
海外製品の時代だ」
とか、
そんな感じでいかがだろう?。
少なくとも、僕ならそうするが。
(でもって、隠れて長岡システムを聴く。)

と、最後に脱線してしまったが、
過去の遺産使い方一つ
だと思っている。


日記の続きはこちらです。
(5月16日 UP!)

一つ前の日記に戻る。

日記のMENUへ。

表紙へ

掲示板へ。